京都こみち日記

こみちを歩く こみちに迷う 日々のこと

「挫折が希望にかわるとき」

 朝、東行きのバス停に居たら、修学旅行中らしき制服姿の中学生7,8名の一班が、地図を片手にダーっと走ってきた。そこへ丁度やって来たバスに乗るだの乗らないだの、もめて悩んだ挙句に結局乗らず、案内板を覗き込んで「堀川って書いてあるじゃん、さっきので合ってるじゃん?」とじゃんじゃん話し合っている。周囲の大人たちは通勤時のややこしい時に耳障りだったので、思わず「堀川通りに行きたいんやったら、向かいの(西行き)バス停から乗りよし」と口出ししてしまった。すると「あッ、ありがとうございますッ」と一応礼儀正しく言い捨てて、即、団子になって走り出した。その背中に思わず「もうそのまま堀川まで走って行きよしッ!その方が早いで!体力もつくし!」と付け加えようとしたが、あっという間に彼方の横断歩道まですばしっこく走り去ってしまい、機を逃してしまった。
 しかしながら、長い目でみるとこうした道案内も、修学旅行生にとっては余計なお世話かもしれない。なぜなら、そのまま気づかずに反対向きのバスに乗って、あれ?と思ったら京都ぐるーっと一周してるじゃん!オゥ!ノゥ!という経験の方が後々の笑える思い出に残るから。それに道に迷ったといっても、雪山で遭難したわけやないから命までとられるわけもなく、そんな時に限って意外な穴場がみつかったりして集合時間に多少遅刻して叱られる程度だ。こういう出来事を経験することである種の逆境に強くなるし、面白い事にハナが利くようにもなる。学校時代の旅行は、名所旧跡巡りよりこの手の出来事の方が印象に残っているものだ。また、複数の人に同じ場所までの道順を尋ねると、それぞれ回答が違ったりして余計道に迷ったり、全然違う場所を案内されて、改めてものの尋ね方を考え直したり、簡単に他人の話を真に受けてはいけない、ということを学習するチャンスにもなる。大袈裟にいうとワケわからんことに対する判断力とか決断力とか第六感とか挫折を希望に変える力なんかが養われるのだ。だから、かつての山ガール及び希望学、教育学的見地からすると、地図を持っている修学旅行生に道を尋ねられたら、東西南北だけを伝える程度に留めて見守るのがよいのではないか、と結論する。