京都こみち日記

こみちを歩く こみちに迷う 日々のこと

絶叫している體(からだ)

 休養の仕上げにまた骨ストレッチ講習会へ。今日は今まで自分がいかに筋肉の力に頼って體を酷使してきたか、痛みをもって体感した。これぞほんとの痛感である。先生に足の甲をほぐしてもらうと、絶叫せずにいられないほど、痛い。しかしここで歯を食いしばって力んで抵抗してしまうとより一層痛さが増す、というのは身体が自然と理解しているので、逆に勝手に力が抜けて肩が下がり、もう降参、堪忍してください、どうにでもしてください状態になってしまう。多少痛がってもここまで固まった筋肉をほぐしにかかるのは、一旦身体をこの赤ちゃんのような、どうにでもして状態に戻すことが目的なのかもしれない。これが、筋肉ではなくて、骨身にまかせるという事の第一歩なのだろう。先生は悶絶するわたくしを前に「この痛さこそが、身体の悲鳴やで。絶叫してるのは身体なんやで〜」と、にこやかに言いやがる。いや、仰る。この説明に頭が納得しようがしまいが、とにかく痛いので、これほどの痛さに耐えて働いてくれている身体に「酷使して悪かった、勘弁してください」と謝罪の気持ちが湧いてくるわけや。しかしながら、こんなにも痛いにもかかわらず、立ち上がって歩くと、足の裏が板の間に吸い付くように歩き易くなっているのだ。これも身体が喜んでいる、というわけか。帰りの徒歩は、スイスイのスイ〜と浮きがかかったような歩調だった。気づくとニヤニヤしているほど。
 それにしても、ここまで痛い目に合わないと力が抜けないというのは、いかに無意識のうちに筋肉に力をこめて日常の動作をしているのか、、、使っている道具は笛とマウスと箸、包丁、針、普通の運動靴、下駄、サンダル、程度のもんやで?、、全く、冗談か?他人の身体とちゃうか?と思いたいほどだが、真剣に、自分の身体におこっている現象である。