京都こみち日記

こみちを歩く こみちに迷う 日々のこと

鯉沼先生談

 今回発行された下の記事を拝読して、わたくしが知らんうちに篠笛に手を染めてしまったワケの一つに行き当たった。これまで尋ねられても、ワケなんて知らん、ワケなんて必要無いと思っていたが、昨日帰宅して届いていたこの記事を読みながら、何かが腑に落ちた。腑は快調なのだが、脳が忘れっぽくなっているので書き留めておく。
 
 機関誌「笛竹111号」〈特別企画:鯉沼廣行先生が語る古典調篠笛への思い〉より引用。長いけど。
>>「西洋音楽は音程と和音、日本の音楽は音色と旋律の世界」・略・・非常に極端な言い方ですが。・・略・・カールベームベルリンフィルを引き連れて来日した時に、日本人はそのハーモニーの美しさに感動して「一体あの美しい音はどうやって生まれるのでしょう」と記者が質問したら、ひと言「愛です」と答えたという。それは西洋音楽の特質をよく捉えていると思いました。愛、すなわちハーモニーなのです。自分の出している音が絶対正しいと思ってその音を出すのではなく、必ずもう一つの音に合わせて、相手を思いやって出さなければハーモニーは生まれない。・・略・・
 ところが、日本の楽器というのはそれぞれが別の世界を持っていて、それぞれの楽器に応じたメロディーを作っているのです。例えばお能の世界などは吹く笛がみな音程が違うのですから、、指を非常に大事にします。先生と音程が違ってもそれはかまわない。音程は違ってもいい、指を大事にするということは、音色を大事にするということなのです。それが日本の音楽の生命です。楽器によって奏でるメロディーも違う、もちろん音程も違う、それで良い、そこに日本の音楽の味わいがあるのです。
 「愛と自然」 カールベームの“愛”に対して日本は何かと考えると、“自然”なのです。日本は自然が豊かで・・略・・・ヨーロッパでは“愛”を叫ばなくてはいられなかったのだと僕は思います。・・略・・それに対して日本は松の木があり、杉の木があり、桜があり、それぞれが勝手に生き生きと伸びています。それで調和がとれて美しい。それは能楽を見るとよくわかります。鼓は鼓、太鼓は太鼓、笛は笛で個性を思いきり発揮して、それで調和がとれている。そこに謡が入るのですが、笛と謡で音程を合わせることは一切しない。西洋音楽的な意味でのハーモニーはありません。精神的なハーモニーと言ってもいいかもしれない。・・略・・<<