京都こみち日記

こみちを歩く こみちに迷う 日々のこと

歌詞不要私論

 最近なぜか、歌の「歌詞」が重苦しく聴こえて、全然、歌詞が入っている曲を聴いていない。小説が読めなくなってきたのと同様。何を聴いてもなんだか、煩悩の症例の羅列のようで、暑苦しくうっとうしい。自分に煩悩があることは受け入れられるが、他人の煩悩は受け入れ難い、ということか。単なる狭量?まぁなんでもええけど。
 しかし、そのお蔭で篠笛の稽古が長続きしているような気がする。数年前に笛のワークショップに参加した時には、吹くより歌ったほうが早いやん!と思い、稽古を中断してしまったのだが、今回は吹き込んで、音色だけに集中するのが楽しくて楽しくて。歌詞から受ける感情の高ぶりやもつれに左右されずに、濁りのない美しい音を奏でる方法を色々と工夫するのが、面白い。ほんのちょっとした身体の使い方で、音色が大きく変化する。共感は、他人とではなくて、自分の身体とするものである。