京都こみち日記

こみちを歩く こみちに迷う 日々のこと

 自然と癒し

 コメントからお題を拝借しまして。
 自然に癒されているというのはどういうことか、ということに、ふっと思い至ったのは、10数年前鴨川の土手を歩いていた時、だ。なんの前触れもなしに「そういえば、太陽の光は昼夜問わず、常時わたしを照らしてくれている。空気は常時わたしを包んで呼吸させてくれている。サンキウ」というお告げ?のような、しかし周知の事実が、なぜかやけにフレッシュな感覚でパっと思い浮かんだ。それこそわたくしが生まれた時も泣いている時も病める時も楽しんでいる時もぼんやりしている時も苦しんでいる時も弱っている時も、わたくしの状態如何に関わらず、常に変わりなく見返りを求めず照らし包んでくれている。これこそが、ほんとうの、癒しということかいな!?と。
 そしてそれまでの人生を振り返ってみると、若い頃から山歩きができたのも、自然の中で、体中に自然からパワーを注入されながら歩いていたからこそなのかもしれん、と。これがもし自然の中ではなくて、空調や照明が整ったビルの中で階段を上り下りしていたなら、死んでいたかも、と。
 当時はいくら10代とはいえ、それまで箱に入っていた娘が、ろくに睡眠もとらず(テント泊寝袋内では熟睡できず)、食事も粗食で(朝ご飯みそ汁、昼パン、夜カレー、行動食ビスケット、ゼリー、水程度)で、なおかつ背中には10数キロの荷物を背負って、山内を歩き続けていたのだ。まるで若い仙人?のようだ。いや、もしかしたらわたくしたちは、森の妖精だったのかもしれない。だって山にいる間はお風呂にも入らず、全然着替えてもいないけど、全然汗臭くなかったもの。ふふふ。こんなことができたのは、それもこれもきっと自然が、汗から漂う肉体の疲れや傷(蛭に吸われた跡とかさ)の臭いを癒してくれて、なおかつ少ない食料や睡眠などから得るほんの少しのエネルギーを補って余りあるほどの、歩き続けるための大きな大きなパワーを淡々と四方八方から注いでいてくれたからこそにちがいない。
 自然に在るみなさん、変わらぬ愛のパワーを注いでくれて、ありがとう!常はお互いの存在を意識することがなくても、見えなくても、確かに在ってくれるお蔭で、いつでも平穏に戻れます。死ぬまで生きるのに十分な体力もいただきました。